プロフィール
活動ニュース議会での質問森永ひ素ミルク中毒の被害者としてさわやか日記プロフィールリンク
プロフィール

☆略歴

●1955年2月13日和歌山県那智勝浦町生まれ(55歳)。
●立命館大学一部文学部英米文学科卒業。党府議団事務局員10年。府会議員5期17年(5期目)。参院京都選挙区・衆院4区候補2回。
●現在、府議団副団長、党府委員・西地区委員。森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会京都府本部事務局長。京都障害児者の生活と権利を守る会常任委員。
●趣味 スポーツ観戦、卓球、推理小説、音楽鑑賞。
●家族 妻と2女1男。

☆府議17年の実績

子どもの医療費無料化、ゆきとどいた教育を、介護保険の改善を 

 子育て支援にいっかんしてとりくみ、子どもの医療費無料化を実現。小学卒業まで拡大せよと要求しています。教育では、保護者や教職員のみなさんの運動と連携し、小学校4年生から6年生までの30程度学級の予算化を実現し、私学高校の授業料が払えず、中途退学する生徒をなくすため、年収350万円までの世帯の授業料無償化を実現しました。介護保険の問題では、老人ホームの実情を調査し、重い負担の軽減や施設の増設を求めています。

白血病患者の命を救う骨髄バンクに情熱

 白血病の子どもたちの命を救うために骨髄バンクを」。親御さんの訴えを聞き、88年に府議会で「知事がバンク設立のため国に要請せよ」と追及。全会一致の意見書採択の力になりました。

 90年に「府立医大で骨髄移植体制を」と質問し実現。95年に国と交渉し、検査や移植費用の保険適用を実現。バンクの普及に取り組んでいます。

中小業者と労働者のモノづくりを支えて

 右京区に多い機械金属や友禅、小売業者の実情を調査し、「下請けいじめを許すな」「友禅振興へ固定資産税の減免や補助増額を」「大型店の規制と商店街振興を」「町工場を守るためリース代に助成を」と府会で質問。全国初のリース代助成を実現しました。身勝手なリストラを規制する府条例を要求し、業者・労働者のみなさんと運動してきました。トステムの工場閉鎖による大量解雇やジヤトコの労働者派遣法違反問題を追及し、トステム本社への知事の雇用維持要請やジヤトコに解雇された労働者の再雇用の要請を実現しました。

すみよい右京区づくりへ

 「乗りやすく便利に」とJRや阪急、京福、市交通局と何度も交渉。今「阪急西院駅にエレベーターを」「コミュニティバスの実現と市バスの改善」へとりくんでいます。また、「自転車置き場の増設」や「桂川の堤防強化」「山ノ内浄水場跡地に子どもがのびのび遊べる公園を」と住民のみなさんと取り組んでいます。

☆森永ひ素ミルク中毒の被害が私の原点

 私は、1955年の森永ひ素ミルク中毒事件で被害をうけ、奇跡的に助かりました。130人もの赤ちゃんの命が奪われました。金儲け優先で安全を二の次にしたからです。

 私は、命を粗末にする横暴は絶対許しません。命と暮らしを大切にする政治をつくるために全力をつくします。



21世紀
人々の願いが花開く
新しい日本と京都を。


 かみね史朗は、参議院をめざすことになった時、母に、いまひとつ確かめたいことがありました。子どもの頃から墓参りに行くたびにそっとひとり子安地蔵に手を合わせていた母の姿、それについてでした。やはりそうでした。かみね史朗にはもう1人兄がいたのです。兄は一家が尼崎にいた昭和18年にうまれました。「12日間しか生かせしてやれなかった」と母は未だに自責の念をもちつづけています。その年は日本国内が戦時統制になり米は配給制に、肉や魚、牛乳、卵、砂糖は庶民のくらしから消えていきます。人々はお国のため、欲しがりません勝つまではの生活を強いられます。母は乳が出ず、とっておきの砂糖湯をのませ、生きておくれと願いました。必死の愛が兄を12日生かしてくれた、とかみね史朗は母をいたわります。そんな母、そんな子どもが何人いたことでしょう。
 アジアの数知れない人々の人生を奪った侵略戦争でした。あれから50年、今、わが国の政府は、自衛隊は憲法に違反せずといい、君が代、日の丸をもちだし反動化を強めています。もう2度と、戦争はいや、平和な社会をと働きつづけてきた国民の願いをよそに、今の政府こそ再び戦争への踏みだす危険をはらんでいることを、かみね史朗は痛感します。そして、一貫して戦争に反対してきた日本共産党に感動して入党した頃の初心をかみしめます。
 人と会い話に耳を傾け、その人が困っていることを解決するために、人に教わり協力を求めて走り、府や国にはたらきかける毎日。1日も休むことなく、子どもや親や、労働者、お年寄り、きのう会った人、明日会う人たちのことを考え、かみね史朗は常に21世紀を展望します。それは希望という名の展望です。大企業のいいなりの悪政の根源を断ち切り、弱い人が切り捨てられることなく、だれもが喜びあえる国をつくるという壮大な希望です。それを語る時のかみね史朗の、虚心坦懐にしてかぐわしい風がわたるような笑顔に、ああ、この人にならいのちとくらしをあずけたい、とだれもが思います。
 21世紀のはばたきをめざして、あなたと語り合うため、きょうもかみね史朗は歩きだします。



政治家
●福祉

32歳の若さで府会議員に
 1987年の春、「人のいたみをわがこととして」を政治信条に、京都府会議員選挙に右京区から立候補し初当選、日本共産党の複数当選を果たし、続いて2期目当選。福祉の充実に力をつくし、常に国政を変えていくという高い視点でたたかいづつけます。

人のいたみを我こととして―。
政治家かみね史朗の信念の火が熱く燃えあがる。


人々の苦しみの解決のために奔走
 「かみねはよく勉強している」。他党の府議からもこうした声が聞かれるほど、府議会でのかみね史朗の活躍ぶりは光っていました。人々の苦しみ、要求のあるところに駆けつけて、じかに声を聞き、法律や制度も研究してのするどい追及に、理事者も答えに窮することもたびたびです。すでに北は丹後町から南山城村まで府下すべての市町村に足をはこび、切実な要求の実現のために、かみね史朗は奔走します。政府や国会へも幾度となく足を運び、人々の切実な声を訴えました。西陣織や京友禅、京版画をはじめとした京の伝統産業の振興、下請け業者の保護や大型スーパーの進出規制、冷夏被害対策や茶園の防霜ファンの設置、寝たきりや痴呆老人家庭への介護激励金の支給、乳幼児の医療費無料化制度の創設、偏差値教育の是正や不登校問題、乱開発規制と自然の保全など、あらゆる分野の問題に真正面からとりくんでいきます。
 ひとのいたみがわかる人、福祉のかみね史朗の名が人々の心に根づいていきました。そしてもっともっとおおきな国政の場で、直接的に政治を変えていってくれるかみねさんにと、人々の期待がふくらんできています。

一歩もひかない気迫、情熱的で知的な論戦は他党の追随を許さず人の心を動かす。

自らが公害患者

福祉の追及は府議会随一

 「かみねさんと会うと生きていこうという元気がわいてくる」森永ひ素ミルク中毒被害者を守る会の人はそういい、かみね史朗がくると待っていたかのように握手を求めます。かみね史朗はこの会の京都府本部事務局長として常に運動をささえてきました。かみね史朗は、重症で外へ出られない人の家を一軒一軒まわり、家族ぐるみで膝つきあわせて話を聞いて歩きました。どの人も親が年老いていくなか自立して生活したいとつよく願っていることを知り、被害者のあるがままの1年間の生活のドキュメントビデオを仲間とともに作りました。
 これは全国的にひろく反響を呼び共感を得ました。「かみねさんは親の気持ちもわかってくれる」と、被害者の親からも厚く信頼されています。この子より1日だけ遅く死なせてほしいと祈る親が何人いることでしょうか。親亡きあとどう暮らしていくのか、さしせまった問題になっています。かみね史朗は、すべての被害者の生涯の保障とともに、国立療養所宇多野病院に重いてんかんの障害をもった人々が安心して暮せる施設の併設を国に要請しています。なかなか腰をあげるどころか、医療、福祉切り捨ての国の今の政治の方向に、かみね史朗は怒りを覚えるとともに、1日も早く、この手でみんなの願いを実現させたいと、こころははやります。
 こうした人々との出会いが重なる毎日は、いのちの重さ、大切さをかみね史朗の胸に色濃くきざみこんでいきます。だれもが、生きたいのです。人として、元気に幸せに。
 ある日、白血病の子どもをもつ人から相談を受けたかみね史朗は、何とか助けたい、とすぐにも病院へ足をはこび医師や患者さんの話を聞きました。健康な人の骨髄液を提供してもらい移植することによって不治の病とされていた病気が完治します。提供者と患者の白血球の型の一致の確立はきょうだいで4分の1、他人で500人から1万人に1人と低く、骨髄バンク制度はどうしても必要です。かみね史朗は、国に骨髄バンクの設立をさせよと、はじめて府議会で迫りました。かみね史朗のいのちを思う一歩もひかない気迫、そして、実態や法律、制度の綿密な調査研究にもとづいた情熱的で知的な論戦は他党の追随を許さず、人のこころをうごかします。かみね史朗の努力が患者、家族の運動と結びあい、国をうごかし、92年度から骨髄バンク設立が実現、京都府立医大病院に、骨髄移植の体制が整いました。
 人々とともに生き、その胸に生きる希望を灯すこと、かみね史朗の幼い頃からの信念の火がいま力を増して赤く熱く燃えあがります。

●いのち・くらし

人びとの苦労・悩み、要求。
かみね史朗は今、京都を駆けめぐる。


低利融資制度を実施させる
 丹後の織物業者に自殺があいつぎました。その数は30人近くにものぼるといわれています。かみね史朗はすぐに現地に足をはこびました。長年力織機を織ってきた夫婦は、朝はまだ星のまたたく頃からとっぷり暮れた夜更けまで、昼ごはんもそこそこにして休みなく織りつづけているのに、借金が返せず夫婦喧嘩のあげくに自殺を考えたといいます。もうこれ以上1人も死ぬ人を出してはならないと、かみね史朗は府議会ですべての業種の中小零細業者への無担保、無保証、無利子の緊急融資対策をつよく求めました。かみね史朗の胸中では長い不況に絶望し疲れはてた業者の人々が苦しい息づかいで喘(あえ)いでいます。雪山で遭難した人を見捨てるのか、と知事に詰め寄りました。そして低利の借り替え融資などが実施されました。それは、不況に苦しむ人々をはげますものでした。かみね史朗はそのことがなにより嬉しく、政治が人々のくらしといかに深くつながっているかを思い、これからも人々のくらしの要求を、もっともっと国政につらぬこう、と意欲を燃やします。

人生に誇りをもって生きられるように
 ひとりぐらしのそのおばあさんは、1日、1000円でやりくりしています。そのうち30円は消費税。これが100円にもなったらいったいどうくらしていけばいいのか、と訴えます。また、商店の人もそんな高い消費税では商売あがったり、と嘆きます。大企業を特別に優遇する不公正税制を見直し膨大な軍備拡張をやめれば国の財源は充分です。かみね史朗は、毎日、下駄の歯をすりへらしつつましく生きているおばあさんに、もうこれからはほっこり楽しい人生を送っていってほしい、と思います。この人たちが戦争をくぐり、だいじな身寄りを奪われ哀しいわかれをくりかえしながらも、荒地を耕し働きつづけてこの国をつくってきました。高齢化社会のもとでも、その人が自分の人生に誇りをもち、そこにいるだけでみんなで微笑みあえるような、そんなゆたかな世の中をどうしても実現しなければならないと思います。

過労死はさせない
 かみね史朗は、働く人々の生活が困難になってきていることでも、国政へ深い憤りを覚え、がんばっている労働者への連帯感を日に日につよめていました。そんなある日、悲鳴が聞こえてきました。それは、中央郵便局の労働者の悲鳴でした。寺前巖日本共産党衆議院議員とともに、さっそく深夜勤務の調査に入りました。夕方5時から翌朝9時45分まで、拘束16時間45分。労働時間は増え仮眠休憩は減らされていたのでした。かみね史朗は労働者たちと話しあいながら1人1人の顔を見ていました。人々のたいせつなくらしのたよりや貯えなどを預かる郵便労働者としての誇りを、この人たちから奪ってはならないと思いました。局幹部と会い、殺人的な勤務を改善するよう主張しました。



家族
妻と子どもたちに励まされる
 卒業にあたり、これからはさらに高い見地でのたたかいをつづけようと、日本共産党京都府会議員団事務局員の仕事につき10年間にわたって、府民のさまざまな要求実現、府政の民主化のためにたたかいます。そして、生涯の伴侶となる、とも子と出会います。
 選挙事務所で活動していたとも子は、責任感がありてきぱきと仕事をし、濃(こま)やかな気配りのできるすてきな女性でした。とも子は保育園の保母でした。
 1979年5月、結婚。やがて長女、次に長男が生まれます。長男が水頭症の疑いがあると医師につげられたとき、史朗は全身が空白になるような衝撃を覚えました。精密な検査の結果、幸い長男の病気の疑いは晴れました。それからは体がバランスよく発育していくための訓練を親がいっしょになってつづけることになります。とも子は保母として働きながら、毎日、3時間おきに預けている保育所へ走り、訓練をしてまた職場に戻り働くのくりかえしでした。帰ってからも訓練はつづき、史朗もやります。1年間つづきます。その間、3つ上のお姉ちゃんは少し体をこわしてしまいました。両親をいたわり弟を心配しながらさみしいのをずうっとがまんしていたストレスが原因のようでした。娘を抱きしめ、夫婦はいとしさで胸が迫ります。家族みんなでいたみを分けあったのです。史朗はあらためて家族に感謝と尊敬の気持ちを深めました。どんな困難にも働きつづけ、けっしてあきらめずわが子も人の子も育てていく母としての保母としての底力をとも子に見ました。それからも父母の手を借りて自力で訓練をつづけ背筋を伸ばしていく長男の勇気、長女のけなげさにふれるたびに励まされ元気がでるお父さんです。故郷の父は、長年の鉱山勤めのためか肺を患い64歳で他界していました。親となって折りにふれ、あの時の父母のいたみがわがものとしてよみがえり、多くの人々のそれにつながっていきます。史朗は、この国の病気やさまざまのいたみを負った多くの子どもたちの成長と発達を保障していく社会の実現へ生涯かけてがんばるぞと、さらなるたたかいへとおおきく歩幅を進めます。



入党
 新宮高校から立命館大学に入ったのは史朗1人だけでした。史朗は「だれ1人知る人のいないここで、個人的なテーマだけでなくもっとおおきく社会的にも視野を広げ、この大勢の学友たちのなかで主人公として生きていこう、みんなに役立つような、なんでも率先してやっていく人になろう」と自己変革の強い決心をします。そしてクラス運営委員長が募られた時、勇気をふるい手をあげます。それが、平和と社会進歩をめざす人生の、スタートラインに立った史朗の自らへの合図でした。1973年の春でした。

あの侵略戦争にいのちをかけて反対してたたかった唯一の党のことばが魂にひびいた。

日本共産党との出合い
 まもなく文学部自治会執行委員に選ばれ、小選挙区制反対、学費値上げ反対、また、学内民主主義をふみにじるニセ左翼暴力集団とのたたかいに積極的に参加。学友と語りあい学習を重ねながら史朗は、しばしば故郷の家族を思いました。念願の食品のお店を持ち、定年後の父とともに商いに精出す母。自動車修理工の兄。みなけんめいに働いているのに、暮らしはけっして楽ではありません。史朗は、親たちが真実豊かに幸せになれることを願い、国民が働いても働いても豊かになれない社会の仕組みの根源を、科学的に解明し、すべての人々の解放をめざしてたたかう民主青年同盟に感動をも__加盟しました。また、東京都議選の日本共産党支援活動で杉並区に2週間入ります。そこで、当時の宮本顕治委員長、不破哲三書記局長の演説をじかに聞き、筋の通った一語一語が新鮮に胸におちていくのを覚えました。あの侵略戦争にいのちをかけて反対してたたかった唯一の党のことば、平和をつらぬき民主連合政府を実現していく党の息吹が、身をのりだして聞く史朗の魂にひびきました。京都へ戻り、歴史の歯車を国民とともに前へ進める役割を果そう、と熱い決意で日本共産党に入党しました。故郷へ帰り決意を報告します。父は何もいいません。母は、ひたすら体を心配し涙ぐみます。史朗のこころはゆるがぬ決意に悠然としていましたが、母の涙を思い出すと京都へ帰る列車はいつもより少し長く感じられました。しかし、選んだ道は、母が幸せになる道、父が灯してくれたこころの明かりを多くの人々に灯していく道です。史朗はそれから卒業まで、文学部自治会委員長、党支部長など、いくつも任務を要請され、推されればひるむことなく引き受け活動をつづけます。



生い立ち
 かみね(加味根)史朗は、1955年(昭和30年)、2月13日、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で、父、一朗、母、道代のもとにうまれました。

人間のいのちよりも利益を優先する企業の理不尽―。
その怒りは少年の行動の原点となる。


父・母の愛
 両親は、兄の誕生から11年目にして恵まれたいのちを心から喜び、父の名の一字をとり史朗と名づけ、健康優良児と呼ばれるくらい元気な子に育てようといつくしみました。母は少しでも栄養をつけようと、当時、多くの親があかちゃんにのませていた森永ドライミルクを史朗にものませました。けれども史朗は、このドライミルクで嘔吐をくりかえしていました。母の胸に一抹の不安がよぎります。
 その年の8月、森永ドライミルクにひ素が混入されており、全国で1万2000人のあかちゃんが被害を受け、130人が亡くなった森永ひ素ミルク中毒事件が報道されました。両親は、すぐさま、保健所へ駆け込みました。
 生後6か月の史朗も被害者の一人でした。それから毎日、母は史朗を抱いて父の勤め先の三菱鉱山の病院へ通いました。解毒剤の注射が打たれました。一時、危険な時もあったものの、1か月ほどでひ素が皮膚表面に浮き出てきて、史朗は九死に一生を得ました。幸いにしてそれからは後遺症はまったくなく、史朗は元気な少年に育っていきました。
 父は、三菱鉱山で取締役付きの運転手や鉱滓(こうさい・煉瓦やセメントなどの原料)の運搬トラックの運転手、鉱夫として働いていました。口数少ない働きもので、子ぼんのう、けして威張ったりすることのないあたたかな人柄でした。史朗に、小型トラックのおもちゃを作ってくれたり、お酒を飲むと尼崎にいた頃の空襲の話を聞かせたりしました。鉱山の落盤事故が何度も起こり亡くなる人もありました。サイレンが鳴る度に父の安否を気づかう史朗は、まぎれもない労働者の子どもとして、育っていきます。父の教えは「信用される人間になれ」でした。鉱山の労働者なかまと伊勢旅行へ父につれられて行った時、バスで隣りの席の人が気分悪くなり嘔吐してそれが父にかかってしまいました。父は平常心でいやな顔もせず、その人の背中をさすっていたわっていました。父のほんとうのやさしさがじわっと史朗につたわりました。「信用される人間になれ」寡黙な父のひとことは、将来なにか人に喜ばれる大きなことをしていこうと希望のような明かりを史朗の胸の奥にともしました。那智勝浦町立市野々小学校に入学した史朗は山や滝のほとり、川などで、毎日のようにだれかと遊びました。

少年の胸に怒りの楔
 ある日、母が1枚の写真を見せました。森永のひ素が皮膚をおおい真っ黒になったあかちゃんの写真でした。すまなかった、と母はいいます。自分が被害者だと知った史朗のこころには、いささかの暗い影も落としませんでした。それよりも、こんなにもわが子を愛する多くの親が負わされた苦労、また、亡くなったり、障害を持つようになった多くの被害者へ思いを馳せるのでした。かけがえのない1人1人のいのちより、利益を優先する企業の理不尽が、少年の胸に怒りの楔(くさび)を打ち込みました。それは、やがてのちの、いつも前を向いて生きていく、史朗の行動力の原点となります。一家はすべての被害者が救われるまではと、どんなに甘くとも旨くとも森永の製品はいっさい口にしませんでした。
 母も父と同じ、骨身を惜しまず働く人で、化粧品の販売業の仕事をしていました。
 史朗は時々、母の仕事について行き、帰りにはおおきな菓子パンを買ってもらうのが楽しみでした。母は、帰ってくると休む間もなく家事に精を出します。つつましいなかにもこころやさしい家族でした。
 那智中学校に入学した史朗は、英語が得意科目になります。外交官になって世界を闊歩(かっぽ)したいとひそかに夢みたりしていました。クラブ活動は剣道、次に、バスケット部にと明るく元気に過ごしました。和歌山県立新宮高校普通科へ入り、卓球部で活躍。そして、大学は志望どおり、京都の立命館大学文学部英米文学科に合格します。



現行ログ/ [1]
キーワードスペースで区切って複数指定可能 OR  AND
活動ニュース議会での質問森永ひ素ミルク中毒の被害者としてさわやか日記プロフィールリンク
リンクはご自由にどうぞ。各ページに掲載の画像及び記事の無断転載を禁じます。
? 2003 Japanese Communist Party, Shiro Kamine, all rights reserved.
[TOP]
shiromuku(u2)DIARY version 2.40